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Showing posts from October, 2013

阿弥陀 と अमिता と immeasurable

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先日の教師教習の講義の中で、「阿弥陀」という言葉についてのお話があった。

阿弥陀という言葉は、サンスクリットの「अमिता (amita)」が、中国にわたって「阿弥陀」と音写されて、日本にわたって「あみだ」と発音されるようになった言葉。サンスクリットと英語はともにインド・ヨーロッパ語族で兄弟のような言語なので、似ている言葉がたくさんあって、この「阿弥陀」についても、最初の「अ (a)」は、英語の「a-」や「un-」と同じ否定の接頭辞で「不」とか「非」の意味。後ろの「मिता (mita)」は、英語の「meter」や「measure」に対応する言葉で、「測る」とか「計る」の意味。なので、「阿弥陀」を英語で表すなら「unmeasured」や「immeasurable」などで、「計り知れない」という意味です、という話だった。

ほう...。「南無阿弥陀仏」というのは「無量の光と命に帰依します」という意味らしいけど、もっとくだけた日本語にしてしまえば、「あぁ、はかれない」とか「まじではかりしれない」「もう分かんないし、まかす。」とか、そんな感じなんだと思う。

お寺のお仕事、今ほとんどお手伝いできてないのだけど、おあさじ(晨朝勤行)だけは毎日(出張とか早朝に出かける時、時々寝坊する時以外)ちゃんと出るようにしてて、ここでは正信偈というものを読むのだけど、1回のおつとめで「南無阿弥陀仏」が38回出てくるのかな、まぁ、約40回ほど声に出して読む。毎日毎日「あぁ、はかれない。はかれない。」と。これからお寺の仕事をちゃんとするようになったら毎日数百回だ。考えてみれば「南無阿弥陀仏」が僕にとっては圧倒的な最頻出語だった(熱心な念仏者というよりは、単に引きこもって仕事してるから無口なだけだけど)。

で、この「Measure」だけど、シロシベの方でも頻出の重要単語で、こっちの Measure は、名詞では尺度とかスケールとも呼ばれる「ものさし」、動詞では「はかる」の意味で、健康状態や症状、態度や感情、性格などなどを数字で表す行為を意味する言葉だ。僕が今までにかかわった論文ではほぼ全てに出てくる言葉で、「○○は○○で Measure した」「この Measure の信頼性・妥当性は...」「こんな Measure を作った」などなど、誇張でもなく Measure だらけ、はかってばかりだ。

スピリチュアリティ、癒す知、リカバリー、スプライト

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来月、島薗進先生にお会いする貴重な機会を得たので、予習しようと思い、「スピリチュアリティの興隆―新霊性文化とその周辺」を読んだ。読んで良かった。

WHOの健康の定義に加えられた加えられそうになった「霊的(spiritual)」という言葉、本屋さんの「精神世界」のコーナーに並んでいる本たち、ホスピスやビハーラなどの終末期医療、心理療法、セルフヘルプ、「気づき」のセミナー、お寺の様々なこと、などなど個別にバラバラに知っていたことが、「スピリチュアリティ」という補助線でつながって、それぞれの意味合いや文脈が読む前後で大きく変わった。

そして、僕にとって何より大きかったのは、大学で学んだことやその延長であるシロシベの仕事に関するもやもやと、伝統的な仏教の教団と深い関わりを持っていることに関するもやもや、この二つのもやもやが、「新霊性文化」というキーワードでつながったことだ。
新霊性文化はどのような観念や実践によって特徴づけられるだろうか。まず、新霊性文化は自らが、伝統的な宗教と近代科学や合理主義との双方の欠点を克服した新しい世界観、あるいは新しい運動や文化であると自覚している。現代の支配的な文化が伝統的な宗教や近代科学によって形成されたものであり、それが困難な行き詰まりを抱えていると考え、それらにかわる代替的な生のあり方を展望しようとする。 シロシベでは「近代科学や合理主義」に関わりの深い人に、お寺では「伝統的な宗教」に関わりの深い人にたくさん出会う。関わりが深いというか、まさにそれらの世界のど真ん中で生きている人たちと言ってもよいかもしれない。どちらの世界にも色んな人がいて、「困難な行き詰まり」を強く感じている人もいれば、そんなことは微塵も感じてなさそうに見える人もいる。僕の日々の仕事の中で、「どうにもこうにもやる気がでない仕事」と「頼まれてもいないのにやってしまう仕事」があるのだけど、どうやら、やる気が出る仕事というのは、この「行き詰まり」を超えていこうと模索している仕事なのではないか、という気がした。

伝統宗教については幼少期から、近代科学については大人になってから(とりわけ原発事故の後)、いろんな局面で「行き詰まり」を感じるけれど、とはいっても、まだまだ行ける、内側から次の時代の生のあり方を提案できる、とも思う(と思いたい)。どちらについても、もやもやした思いが…

教師を授けられた

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教師を授けられた。

9月21日から30日、京都の本願寺西山別院で行われていた教師教習に参加してきた。感想というほどの感想もないのだけど、一応思ったことをメモしておこう。

初日、集合して簡単な説明があった後、居室に通されて俗服から法衣に着替え。そこに指導員の方も一緒についてきて着替えの様子をチェックするのだけど(驚くけど)、
「(真顔で)あれ、なんで下着が白じゃないの?」
「(半笑いで)え!?」
「(真顔で)案内に書いてあったよね?読んでない?」
「(ひきつった顔で)え、あぁ、書いてあったようにも...。」
「(真顔で)今日は電話を許可するので、電話して送ってもらうようにしてください。」
ま、確かに案内にそう書いてあった。だけど、わざわざ買うのももったいないし、別にどうでもいいことだろうと普段通りの下着で行ったわけだけど、まさかの展開...。公衆電話から家に電話すると父が出て、
「あ、お父さん?下着、白くないとあかんねんて。2~3枚買って送ってもらえるかな?」
とまぁ、なんというか、まぁ、なんというか...。

なぜ下着は白じゃないのいけないのか、理由の説明はないけれど、僧侶に華美な下着は不適切だから、みたいな感じだろうか。指導員の先生、赤いアルファロメオで出勤されてますけど...。ま、僧侶が所有する車の車種なんて、僧侶の下着の色と同じ程度にどうでもいいことですね。どうかな。




毎日5時半起床で、掃除、朝のお勤め、朝食、講義、昼食、講義、夕方のお勤め、夕食、夜のお勤め、翌日のお勤めの練習、課題、入浴、、、、と23時の消灯までみっちり予定がつまってた。ここ数年、人に叱られるという経験をほとんどしてなかったので、叱られっぱなしの生活はちょっと新鮮だった。

参加者は45名で、年齢層は、20代が半分、30代が2割、40代1割、50代1割、60代1割みたいな感じかな。男性が8割、女性が2割程度か。現役大学生、お寺でお坊さんをしてる人、普通の会社員をしてる人、定年退職後の人、いろんな人がいた。僧侶であることに熱い思いを持っている人もいれば、のっぴきならない事情でやむを得ず住職を引き受けることになってしまった人、なんとなくの人、参加の動機もいろいろ。

初日から「あと何日で帰れる」とカウントダウンを始める人が少なからずいるのだけど、若い人ほど帰ることを心待ちしていて、年をとるほど帰り…