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Showing posts from October, 2012

書道を始めることにした

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ここ数年、実家への引越しとか起業とか大きめの出来事が密集してて右往左往してたのだけど、それなりに落ち着いてきたところで去年の震災と原発事故。で、これからの生き方についていろいろと考えさせられて、まだよく分からないのだけど、ふつふつと次の展開のイメージが広がり始めた今日この頃。いくつかある今後やりたいことの中で、最もお手軽に始められそうな「書道」を始ることにした。 

父に「書道しようと思う。余ってる道具あるかな?」と聞いてみたら、アッという間に、硯、筆、墨、紙、文鎮、下敷き、全部揃った。その上、お手本として角川書店から出てる榊莫山の「書の講座」シリーズも出てきた。読みやすいエッセイがたくさんあって読み物としても面白そう。書は中国史との関係が深いんですね。最近歴史に興味が出てきたとはいえ、中国史は気軽に入っていくと迷い込んでしまいそうだな...。

 で、一巻の最初に出てくる「蘭亭序の臨書」を真似して書いてみた。筆を触るのは高校の時の選択授業で書道をした時以来。

というか、「臨書」ってなんだ?「蘭亭序」ってなんだ? 「臨書」はWikipedia によると、
手本を見ながら書くことを臨書(りんしょ)といい、古典などの学習手段とされている。臨書には、形臨(けいりん)、意臨(いりん)、背臨(はいりん、暗書(あんしょ)とも)の方法があり、それを用いて技術・書作の原理を習得し、創作活動への自己の成長を図る。
形臨: 字形を真似することに重点を置いて書く。手本にできるだけ忠実に字形や用筆法だけを模倣し、もっぱら技術面の習得を図る。 意臨: 筆意を汲みとることに重点を置いて書く。作品が生まれた時代背景や作者の生き方、精神性まで模倣する。 背臨: 手本を記憶した後、手本を見ないで記憶を頼りに書く。その書風を自分のものとして他の作品にも応用していく。 臨書 - Wikipedia なるほど。「守破離」と似てる。で、蘭亭序(らんていじょ)というのは、
蘭亭序(らんていじょ)は、王羲之が書いた書道史上最も有名な書作品。353年(永和9年)3月3日に、名士41人を別荘に招いて、蘭亭に会して曲水の宴が開かれ、その時に作られた詩集の序文の草稿が蘭亭序である。王羲之はこれを書いたときに酔っていたと言われ、後に何度も清書をしようと試みたが、草稿以上の出来栄えにならなかったと言い伝えられている。…

ソローニュの森

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田村尚子「ソローニュの森」が良かった。大好きな医学書院の「ケアをひらく」シリーズから出た写真集。 白い装丁もきれい。内容については、Wired と Studio Voice に詳しい記事があったのでそちら参照で。


「正常」とは何ですか?:伝説の精神病院「ラ・ボルド」で写真家・田村尚子が写した問いかけ « WIRED.jp田村尚子『ソローニュの森』 | STUDIOVOICE


 エッセイの中に出てくるウリ先生の言葉も印象的で、 
対象を固定化して物象化してしまわないための<詩的なロジック>  とか、
森の片隅には、修復されないまま残された屋外カフェや使い古された機具、日向に日陰に咲く花々の片隅に置かれたベンチ、飼育小屋の馬や動物たち。サロンには、患者さんによって運営されるタバコ屋や、アルコールなしのバーもある。そのどれもが、機能を果たすためだけにつくられたものとは一風違ったものだなといつも思う。利便性を優先する「コード化」を拒み続けるためには常に戦う姿勢が必要だというウリ先生の話はよくわかる気がした。 とか。


 どういう順番で写真が並べられているのか知らないけど、前半の恐る恐るシャッターがきられた緊張感の高い写真から、後半に向けて、徐々にリラックスして真正面から見据える写真へ変化していくようにも見える。そのプロセスを追体験させてもらえて、そして「人を疎外しない」ということがどういうことなのかを写真を通して垣間見せてもらえた気がする。

やりたいことや作りたいものを模索中の今、ちょうどいいタイミングで出会えて良かった。このところ疼き始めた「『場』を作りたい願望」に大きなインスピレーションを与えてもらった。

M.J. のマイ念仏

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東京行く時に本を持参するのを忘れて駅前のツタヤで買ったMJの「マイ仏教」。面白かった。ユーモラスな文章なんだけどすごく真っ当で分かりやすくて共感できる仏教思想の解釈。

たとえば「比較三原則」おもしろかった。
他人がいて、それを比較する言葉があって、はじめて自分の立っている位置を認識します。比較ができるからこそ人類は進歩したのかもしれないし、比較こそが苦しみを生む原因なのかもしれません。これを「比較三原則」と私は勝手に読んでいます。“他人と過去と親”。この三つと自分を比較してはいけないのです。 うふふ、本当にその通りだと思う...。

で、一番印象に残ったのが「マイ念仏」。

お寺で生まれ育ったりすると、「何なんだよ、南無阿弥陀仏ってよ...。」などということを一度は思ったりはするものだと思うのですが(他の人は知らないけど)、この何とも難しい「念仏」について、今まで読んだり聞いたりした説明のなかで一番しっくりきたかもしれない。ちょっと長いけど引用すると、

 言葉があることが原因で、他人との比較を生んでしまい、それが苦しみの原因だとするならば、それを逆手にとって、言葉を上手に使ってポジティブになれる方法もあるのではないかと思います。私はどんなに辛いときも「そこがいいんじゃない!」と思うようにしています。(中略)
 「そこがいいんじゃない!」と唱えることで、段々とその対象を好きになっていきます。考え続けて苦しい状態も少し楽になっていきます。このように「そこがいいんじゃない!」と発声する訓練をしておくと、そう発言した瞬間から、脳が「そうなんだ」と思い始めてくれます。人間はいつも脳主導で動いているように見えますが、このように言葉を無理矢理にでも発することで、その0.1秒後に脳がついてくる、ということに気づきました。
 これは言葉からの開放かもしれない、と逆説的に思うこともあります。普段、脳は先輩面をしていますが、たまには先輩を困らせてみるのも一つの手ではないでしょうか。
 思ってもみなかったことを発言した瞬間、間違いなく先輩の脳は戸惑っています。でも、先輩の脳も頭が良いので、すぐに飲み込んでくれます。
 この「そこがいいんじゃない!」は、自分にとっての念仏みたいなものです。
 私の「南無阿弥陀仏」が、この「そこがいいんじゃない!」なのです。
 「お金がなくなってきた。今月ピンチだな。」…

マッシュルーミング

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なんと、ときたまさん飯沢耕太郎さんと猪子山でキノコ狩り。わお!
(しかも、お二人ともシロシベの2012年Tシャツをお召し。素敵。)



確実に食べれるキノコだけで半日でこんなに採れた。判別不能のキノコも合わせるとこの倍以上。何百回と通ってる道だけど今まで全然キノコに気付かなかったなぁ。




北向十一面観音の前で、地元の子どもたちも興味津々。老いも若きも男も女も評論家もアーティストも、キノコの前ではみんな「変な笑顔」になります。

で、食べた。


セイタカイグチ(Boletellus russellii)のガーリックソテー。


ナラタケ(Armillaria mellea)などなどのピザ。

他にも炊き込みご飯やお味噌汁、ドキドキしながら食べたけど、一番印象深かったのが、ホコリタケ(Lycoperdon perlatum)のデザート。

「昼の家夜の家にホコリタケのデザートのレシピ出てくるでしょ、あれしましょうよ。」
「ああ、あれですね。」
とキノコ狂いの皆さんの間では通じてしまうらしいポーランドのオルガ・カルチュクによる「昼の家、夜の家」という本があるそうで、そこに出てくる「ホコリタケの甘いデザート」のレシピにならって作ってみた。該当部分を引用すると、
まだ若い、白いホコリタケ
炒めるためのバター
粉砂糖

ホコリタケを、コインの厚さにスライスする。キノコの皮は必ずしも剝かなくてよい。尖った突起は、取り除くこと。フライパンにバターを熱し、ホコリタケが金色になるまで炒める。粉砂糖をまぶして、お茶うけにどうぞ。 文学作品に出てくるレシピって美味しさ以外にも味わいがありますねぇ。この本の内容紹介、
ポーランドとチェコの国境地帯にある小さな町、ノヴァ・ルダ。そこに移り住んだ語り手は、隣人たちとの交際を通じて、その地方の来歴に触れる。しばしば形而上的な空想にふけりながら、語り手が綴る日々の覚書、回想、夢、会話、占い、その地に伝わる聖人伝、宇宙天体論、料理のレシピの数々…。豊かな五感と詩情をもって、歴史に翻弄されてきた土地の記憶を幻視する。現代ポーランド文学の旗手による傑作長編。 読みたくなってきた...。それはさておき、ホコリタケのデザート。


写真を撮り忘れてしまったけど、↑ ホコリタケはこういうキノコ(写真はaSIMULAtorさん)。成熟すると茶色くなって、つまむとてっぺんから胞子の粉…

It ain't nothing like について

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ヒップホップの楽しさの一つが本歌取り。で、歌詞での本歌取りもいっぱいあるのだけど、英語のラップなんて基本的に聞き取れなないし、歌詞を読んでも意味がわからないことが多いので、残念なことに何を言ってるのか不明のままほったらかしにしてしまいがちです。が、今日一つ謎がとけたのでメモ。

 「イテネ、ナ、ラィ、イテネ、ナ、ラィ、イテネ、ナッ、ラィ、ヒップホップミュージック」ってよく聞くなぁ、とは思っていたけど、
It ain't nothing like, it ain't nothing like, it ain't nothing like hip hop music. でした。 今日iPhoneでこれを聞いてる時にふと画面を見たらタイトルにもなってた。言われてみればい確かにそう言ってる。



この Bizarre Tribe: A Quest to The Pharcyde、大好きな A tribe called quest と The Pharcyde のハーフ・アンド・ハーフみたいな感じで、たまらないといえばたまらないのだけど、王将の餃子と天一のラーメンのセット定食みたいな、ちょっと、ま、いいか。で、「イテネ、ナ、ラィ」は上のビデオの3:30くらいから。

で、ググってみると、一番最初はこれだそうで、Stetsasonic の Go stetsa Ⅰの3:45あたり。



あと、Method Man の Spazzola の1:14とか。



Ain't nothing って二重否定で肯定?「ヒップホップのようなものは他にない、わけでもない」の意味?かと思ってググってたら、ピッタリの質問が。
i don't need no doctor とは? | 英語のQ&A【OKWave】
このような二重否定を使うアメリカ人は多いです。しかし、これは明らかに誤った英語だと、当人たちを含めたアメリカ人の誰もが認めています。ですから、その数多くのアメリカ人は、学校で先生に再三注意されるし、ビジネスミーティングや簡単な裁判で使おうものならバカにされたりします。 以上のことからも分かるように、このような二重否定は、無学な人々やアウトサイダーの間でよく使われます。よって、レイ・チャールズのように、「どん底の黒人の暮らし」を歌うのを常としていた歌手や…