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Showing posts from April, 2012

放影研のLSSコホート論文を読みたい

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原発事故にともなって表面化した様々な問題が無視できなくて、だけどどこに焦点を当てればいいのか、何の勉強すればいいのか分からず、日々のインプットに翻弄され、他の雑用に追われてほったらかしになり、という日々が続いています。

まずはやっぱり福島の原発事故の健康被害が心配で、しかも大学では保健学を学んできたわけなので、まずは放射線と健康に関する論文を読むことは欠かせないだろう、と考えるようになりました。2011年4月5日のブログで、
放射線の健康への影響、ここ数週間でたくさんの情報に触れましたが、結局のところよく分かってないんですよね。僕はこの分野に詳しくはないですが、放射線の健康への影響を評価するのって、被曝量の評価も難しければ、数世代にわたるフォローアップも難しく、介入研究で他の要因をコントロールすることもできない、しかも強力な利害関係者がたくさんいて被曝自体が隠蔽されがち、こういうものを正確に評価することが極めて難しいということはよく分かります。テレビなどで言われている「安全です」は「(たとえ後々健康被害が出ても因果関係を立証できないから)安全です」なんだと思います。 と書いてるのですが、この考えは今も同じで、生活環境に放射性物質がまかれた状況の健康影響を調べる研究デザインとして、RCTやコントロール群をおいた調査、周到に準備された前向きコホート研究などはあり得ないので、どうせまともなエビデンスなんてないに決まってる、これは未知のリスクである、安全も危険も分からない、と考えています。

なのですが、こんなに研究に不利な条件が揃っているにもかかわらず、いろんな研究の蓄積があるわけで、ちゃんと自分で原典にあたらないといけない、と思っていました。で、読むべき論文はいろいろありそうだけど、今の様々な議論でよく参照されるICRP、これの様々な基準の大きな論拠になっている広島・長崎の原爆被爆者の被曝線量と健康調査、これがまずは必読だろうと考えてました。

学生の時の疫学の授業でも「広島の比治山に日米協同の研究センターがあって、終戦直後から被爆者の大規模なコホートが行われている。」という話を聞いたことがあって、それが今でも記憶に残っているところをみると、その時から何かひっかかってたんですね。「爆弾を落とした国と落とされた国の研究者が共同で被爆者を追跡?!」と。

で、福島の事故とは別に…

「吾唯知足」と「Stay Hungry. Stay Foolish.」

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「吾唯知足(われ、ただ足るを知る)」という言葉と、「Stay Hungry. Stay Foolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ。)」という言葉、どっちも好きです。「そこで足りとけ」と「足りないままでいろ」という2つの言葉、正反対のことを言ってるようでいて、でも、言わんとすることは同じような気もして、でも、何がどう同じなのか、足りるって何のことか、ずっともやもやしていました。


平川克美 (著)「小商いのすすめ」 を読んでいて、ちょっと分かったような気がするのでメモです。

この本自体は、「これからの人口減少社会、もう経済成長至上主義ではどうにもならない。震災もあった。原発事故もあった。さあ、これからどうしよう。」という内容で、大きな流れとしては共感するけど、結局のところ、「昭和30年代は良かった」ということが前面に出すぎてて、飲み屋でおっさんのノスタルジックなお説教を聞かされているような、「はぁ、そうでしたか...」としか言いようのない感じになってしまうのがちょっと残念ではありました。

それはさておき、「吾唯知足」と「Stay Hungry. Stay Foolish.」です。この本の102ページ、橋本治の「貧乏は正しい!」を引用して解釈する部分があります。引用すると、
かれはここで、進歩とか発展という観念は、貧乏という状態のなかにしかないと言っています。…ここでいう貧乏とは、具体的に金がないとか、陋巷に暮らすといったことを意味しているわけではないのです。貧乏とは若さの別名であり、それは強さとか美しさといったこととも同義であるべきだということであり、人間の本源的な強さというものは貧乏という裸の人間の中にだけ宿っているということです。別の言い方をすれば、野生ということです。…富という武器を手に入れると、その瞬間に人間は、もう若さを失ってしまうし、進歩や、発展ということとは無縁の存在になるということです。…富は、誰もが憧れる欲望の対象ですが、いったんそれを手に入れたら人間は最も大切なものを失ってしまう。逆に言えば、富を手に入れるためには、人間は最も大切なものを諦めなくてはならないということです。富とは憧れであると同時に、恐怖でもあらねばならないはずのものだということです。なぜなら、いちばん大切なものである野生と富はトレードオフの関係にあるからです。 こういう…

エステーエアカウンターで国府台の放射線量を測ってみた

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放射線測定器、もう品薄状態も終わって値段も落ち着いたかなと思って探してみると、エステーのエアカウンターという約5000円の機械が見つかったので、買ってみた。

この商品は「首都大学東京の福士政広監修」と書かれていて、どんな人かとググってみると、「原発業界御用学者リスト@ウィキ」 がヒットして、「2011年7月にはNHKの朝の番組で100mSv 以下なら問題ない、プールも気にする事ない、雨に濡れても大丈夫と発言。」なんてのがありますね...。まぁ、ううん、それはさておき、昨日千葉県市川市の国府台病院で会議があったので持って行って周辺を測ってみた。

まずは、市川スポーツガーデンのテニスコートの横、地面はアスファルトで0.5m高で 0.23μSv/h。


次は、国府台病院の敷地内の草地で、1m高で 0.36μSv/h。


旧精神保健研究所の病院側ドアの脇の雨樋の下、0.5m高で 1.25μSv/h (!)。


江戸川の土手の横の花壇、0.5m高で 0.22μSv/h。


江戸川土手のアスファルトの道路、1m高で 0.19μSv/h。


ちなみに銀座の Dover Street Market 前、1m高で 0.06μSv/h。


地図にピンを立てるとこんな感じ。


市川市には大柏小学校に文科省のモニタリングポストがあって、0.1μSv/h前後で推移してる様子。偶然、この数日前に群馬大の早川先生が市川駅近くの草地で計測されてたようで、0.18μSv/h。ま、それなりにちゃんと測れているのかな。雨樋の下、1桁上がるんですね。

僕が測ったところでどうなるものでもないけど、放射性物質がどういう場所に溜まるのか、どういう動きをするのか、自分で測ると見え方が変わってきますね。放射線の勉強のための実習と思えば、自分で測ってみるのも悪くないのでは、と思います。

世界の「分かり方」としての右翼と左翼

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1966年に邦訳が出版されたジェームス・ブラウン(あのJBではない)の「説得の技術―宣伝から洗脳まで」 を読んでいる。

なんでこんな本を読むかというと、原発の事故以来、Twitterのタイムラインに「プロパガンダ」という言葉が頻出しててプロパガンダについて知りたいと思ったことと、あと、宣伝や説得、プロパガンダは最近注目する言葉「対話」の真逆の要素を持っている感じがして、「対話」が何なのかを知る上で反面教師的に参考になるかもしれないと思ったため。印象に残ったことのメモ。
17~18世紀には宣伝的要素の強いパンフレットがはんらん …✄…社説やくだらないゴシップ記事が幅を利かせていたのである。当時の編集者にとって、ゴシップやスキャンダルは、発表するか握りつぶすかで相手を脅すことのできる、もってこいの収入源だった。…✄…新聞を公正な権威ある存在にしたのは、商業広告の発達である。広告主が喜んでスペースを買うためには、発行部数の多いことが必要であり、そのためには新聞は、偏見のない、公正な立場で報道しなくてはならなかったからである。p22 商業広告の発達が新聞を公正なものに変えた、というのには驚いた。今、商業広告が新聞の内容を歪めてることがとても大きな問題だと思うのですが、最初はそうだったのですねぇ。ネットが楽しいのってこの広告支配から免れているところが大きい要因であること、そして、「グーグル八分」がとても大きな問題であることも理解できるようになった。

もともと「プロパガンダ」という言葉は、ラテン語の propagare(繁殖させる)に由来する言葉で、「教義や習慣を普及させるための仕事、または、方法」という意味。人に情報を伝えて気持ちや考え、行動を変化させようとする点で「教育」と「宣伝」は似ているわけだけど、
”教育”と”宣伝”の区別は簡単である。前者は、一人でものごとの判断ができるようにするのが目的であり、後者は、考えない人のために既成の判断を押し付けるのが目的である。p24 分かりやすい。それで思い出したけど、HIROMIXの
それから最近考えているのは、美術とエンターテイメントは全く対極の存在だということ。美術は「人々が自分自身に向き合うきっかけを与えるもの」であり、エンタメは「自分自身と向き合うことからの逃亡であり、気晴らしに過ぎない」
canon.jp/scsa…

高濃度塩素とモンゴメリのバスとすっぱい葡萄

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先月、「原発事故で何が吹き飛んだか?~日本社会の隠蔽構造とその露呈~」という催しに参加して、そこで赤城修司さんという福島市の高校の美術の先生のお話を聞いて思ったことのメモ。

会の様子は、iwj.co.jp/wj/open/archives/6770←ここで見れます。IWJ会員は全部見れます。



心を動かされる話がいっぱいあったけど、中でも印象に残ったのがこの写真の話でした。これは福島県内の学校のプールのフェンスに貼られていたものだそうで「プール内高濃度塩素立入禁止」と書かれています。昨夏はプールを使った授業が中止になり、また、このプールの水を抜くと放射性物質を含んだ水が下流の田んぼに流れてしまうために放流しておらず、事故後水が溜まったままになっているとのこと。放射性物質が含まれていることやその危険性を認識しているにもかかわらず、「高濃度放射性物質立入禁止」とは書かずに、なぜか「塩素」と書いてある。これを書いたのはこの学校の先生のはずで、政府や東電ではなく福島の現場の先生が、誰かの指示を受けるでもなく隠蔽に加担してしまっている状況があるのではないか、という話でした。赤城先生の「思いやり隠蔽」という言葉は正鵠を射た表現だと思います。

どうしてこういうことになってしまうのか考えていて思い出したのが、一昨年に読んだキング牧師の本で、 「自由への大いなる歩み―非暴力で闘った黒人たち」という本に書かれているバスの中のエピソードでした。

当時のアメリカには人種隔離政策があり、特に南部では、公共交通機関などでも黒人用と白人用の座席が分けられていた。この状況はおかしいと考える黒人の牧師がバスに乗り、白人用の座席に座っていたら、バスの運転手が席を移るように指示した。牧師はこれを拒否する。運転手は降りるように命令する。牧師は拒む。問答の後、運賃を返すという条件で牧師はバスを降りることにした。この時に、同じバスに乗っていた他の黒人の乗客に抗議の意味を込めて一緒に降りてくれるよう彼は言う。しかし誰一人これに応じるものはなく、そればかりか、一人の黒人の婦人が彼に歩み寄って、「あなたは現実をもっとよく知らねばなりません。」と諭した、というものです。

不条理から利益を得ている人だけでなく、不利益を受けている人が、不条理から目を背けるだけでなく、不条理が続く方向に加担してしまう。しかも善意に基づいて。

最近読んだ二冊の本

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読んだ本のメモ。

金子勝と児玉龍彦 の「逆システム学―市場と生命のしくみを解き明かす」。著者お二人ともテレビやYouTubeでお話されているところを見たことがあって、理路整然と超早口で話される姿が印象的で、本を読んでてもその様子が思い出され、読んでる目も字をなぞる速度が上がります。生物学と経済学、実はとてもシンクロしてて、抱えてる問題やトレンド、これからのあり方、相互に学び合う部分が大きい、という本。キーワードは「多様なフィードバックのループ」。

網野善彦 の「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」 。これは、例の「東大話法」の本の中で、
無縁者とは「えた、非人、子ども、老人、女性、僧侶、医者、かたわ、酒飲み、喧嘩好き」などです。p220 っていう一文があって、「僕の周りにいる人、好きな人、無縁者だらけじゃないか。無縁って何だ?」と気になったのがきっかけで買った本。日常的に使う「無縁」は、頼れる人がいないとか、身寄りがないとか、孤立しているとか、そういう意味だけど、上のリストからも分かるようにこの「無縁者」の意味は違います。今風の言葉でいうと「システムから自由な人たち」という感じかな。読むと世界の見え方が変わる本は良い本だと思っているのですが、これはまさにその意味で良い本。「無縁」性という軸がひとつ増えて、人を見る時もそれ以外でも、「おぉ、これはかなり無縁。」などと思ったりするようになります。東大病院と旧岩崎邸の間に「無縁坂」という坂があるのですが、これなんてまさにこの「無縁」の坂であることがよく分かります。今は東大病院も三菱もシステムの中枢で「有縁」そのものですが。


今日たまたま目に止まったTumblrの記事だけど、
出版社の最大の弱点は、本が嫌いな人間が内部にいないことだ、と以前に書いた。これは、出版社に限ったことではない。おもちゃの業界もそうだし、映画やアニメの業界もそうだと思う。TVだって、大学だって、ほぼ同じだ。第一世代は、いろいろな人間がいたはずなのに、その組織が安定期に入ると、その仕事に憧れた人間しか入れないようになる。自分の好きな仕事をしたいと考えるのが自然だし、また就職の面接でも、どれだけその仕事がやりたいのかを問う。だから、当然仲間が集まる。
shin3.tumblr.com/post/20368894905 この記事と、一見全然関係のない上の…