M.J. のマイ念仏

東京行く時に本を持参するのを忘れて駅前のツタヤで買ったMJの「マイ仏教」。面白かった。ユーモラスな文章なんだけどすごく真っ当で分かりやすくて共感できる仏教思想の解釈。

たとえば「比較三原則」おもしろかった。
他人がいて、それを比較する言葉があって、はじめて自分の立っている位置を認識します。比較ができるからこそ人類は進歩したのかもしれないし、比較こそが苦しみを生む原因なのかもしれません。これを「比較三原則」と私は勝手に読んでいます。“他人と過去と親”。この三つと自分を比較してはいけないのです。
うふふ、本当にその通りだと思う...。

で、一番印象に残ったのが「マイ念仏」。

お寺で生まれ育ったりすると、「何なんだよ、南無阿弥陀仏ってよ...。」などということを一度は思ったりはするものだと思うのですが(他の人は知らないけど)、この何とも難しい「念仏」について、今まで読んだり聞いたりした説明のなかで一番しっくりきたかもしれない。ちょっと長いけど引用すると、

 言葉があることが原因で、他人との比較を生んでしまい、それが苦しみの原因だとするならば、それを逆手にとって、言葉を上手に使ってポジティブになれる方法もあるのではないかと思います。私はどんなに辛いときも「そこがいいんじゃない!」と思うようにしています。(中略)
 「そこがいいんじゃない!」と唱えることで、段々とその対象を好きになっていきます。考え続けて苦しい状態も少し楽になっていきます。このように「そこがいいんじゃない!」と発声する訓練をしておくと、そう発言した瞬間から、脳が「そうなんだ」と思い始めてくれます。人間はいつも脳主導で動いているように見えますが、このように言葉を無理矢理にでも発することで、その0.1秒後に脳がついてくる、ということに気づきました。
 これは言葉からの開放かもしれない、と逆説的に思うこともあります。普段、脳は先輩面をしていますが、たまには先輩を困らせてみるのも一つの手ではないでしょうか。
 思ってもみなかったことを発言した瞬間、間違いなく先輩の脳は戸惑っています。でも、先輩の脳も頭が良いので、すぐに飲み込んでくれます。
 この「そこがいいんじゃない!」は、自分にとっての念仏みたいなものです。
 私の「南無阿弥陀仏」が、この「そこがいいんじゃない!」なのです。
 「お金がなくなってきた。今月ピンチだな。」と思ったとしましょう。そこですかさず、「そこがいいんじゃない!」と言えば、脳も「あれ、それもまたいいのかな。そうだね、それもおもしろいね」と少しポジティブな気持ちになれるかもしれません。「彼女にふられた」「仕事が上手くいかなかった」「あの上司が嫌い」どのようなケースでも、「そこがいいんじゃない!」と、本当はよくないかもしれないけど、そう唱えることで少しは楽になれるかもしれません。(中略)
 漫画家の根本敬さんに、「でも、やるんだよ!」という名言があります。これも根本さんの「念仏」です。ボブ・ディランの「どんな気がする?(how does it feel?)」というのも念仏の一つかもしれません。
で、驚くのだけど、このみうらじゅんの「そこがいいんじゃない!」と根本敬の「でも、やるんだよ!」はスチャダラパーの歌詞にも何度か出てくるのだけど、僕もすでに無意識に実践してきてたんですねぇ...。見事にスチャダラパー経由で僕の脳に焼き付いていて、そして、それをみうらじゅんは意識的に「念仏」として仕掛けてた、っていうのが、何とも...。

あと、Bob Marleyの「'Cause every little thing gonna be alright. (何もかも大丈夫になるから)」 、マイ念仏だなぁ。

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