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Showing posts from November, 2009

クロルプロマジン換算

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抗精神病薬について勉強しなくちゃいけないことになってしまいました。今まで近い場所にいながら、ちゃんと勉強したことがありません。勉強といっても、簡単な集計ができればいいだけのことなので、効き方や副作用、作用機序なんてことはどうでもいいことです。名前とクロルプロマジン換算値だけです。自分用のメモです。 よく頑張った!google も wikipedia もえらい!これぐらいの種類なら何とかなりそう。

ベジェ曲線

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シロシベのお仕事、「はい、まかせて下さい。それ超得意です。」と言い切れることはほとんどなくて、どのお仕事にも、「一度もやったことないですけど、たぶんできると思います...。」という作業が入っています。最初は、そんな状態で請け負ってしまっていいものか、本当にできるだろうか、と不安になったりもしましたが、もうすっかりタフになったというか、鈍くなったというか、ググってやり方を調べて、試行錯誤して、って感じでやり方を勉強するところから始めるのが普通の状態になってきています。日々是勉強です。 今回は、↓このような画像を印刷できるように描き直すという作業です。 イラレを使うんだろうな、ということは分かります。それ以降はわかりません...。とりあえずググってググってどうやらペンツールを使えばいいということが分かり、 ベジェ曲線、パス、アンカーポイント、コーナーポイント、スムースポイント、セグメント、新出単語の嵐です。理解できなくても直感的に描けるっていうのは、ベジェがすごいのかアドビがすごいのか。 今日、ペンツールの使い方をおぼえました。今までそんなことも知らずによくやってたな...って話です。

Song Dong

これは ニューヨークのMOMA で展示されていた、宋冬(Song Dong)の「Waste Not / 物尽其用」という作品。宋冬の母親が50年間捨てずにお家に持っていたものをそのまま展示した作品( こちらが詳しいです )。 僕は容赦なく物を捨てます。でも、捨てる時に何も思わないわけではなくて、罪悪感や良心の呵責を人並みにというか、きっと人並み以上に感じています。どんなしょうもない物であっても、それを作った人や運んだ人、売る人、買う人、あげる人、膨大な数の人が関わっていて、いろんな思いがつまっているのは知っています。何とも思わないわけではありません。 原料になっている素材だって、たとえば、木綿のシャツの原料になった綿の木にしたって、その木を育てた土には、近くで息絶えた小さな生き物の死体が微生物によって分解されてできた土が混ざっていて、その木を育てた雨には、どこかの海でクジラの吹いた潮が蒸発して雲になった水だって混ざっているわけです。ロマンチックな話ではなくて、事実としてそうなっているわけです。プラスチックみたいな化石燃料由来の素材なんて、化石燃料がそもそも地中に堆積した動植物の死骸なわけで、なんていうのか、いろいろ思うわけです。 宋冬のお母さんは捨てなかったわけですが、これは「極めて貧しい生活の中で、いつか再利用しようと捨てずに屋内に大切に保管」という説明ももちろんあるとは思いますが、別に「極めて貧しい体験」をしたことがない人だって物を捨てるのは心苦しいわけで、人に物を捨てさせることを躊躇わせるもっと原始的で根源的な何かがあるような気がしてならないわけです。 あと、こういうのを見ると、なんていうか、捨てることももったいないけど、作ることも買うことも贈ることも、ちゃんと後のことを考えないといけないな、って思います。 何がいいたいか分からなくなってきましたが、いろんなことを考えさせてくれる素敵な作品だなって話です。

シロシベ号

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車に社名を入れたい 。 バンクシー かっこいい。というわけで、よせばいいのにスプレーで描いてしまいました。後悔しません。後悔してることを認めません。

おこうこのたいたのん

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明日と明後日はテストなわけですが、どうもやる気が出てきません...。困ったものです。 で、上の写真、「おこうこのたいたのん」を作る途中の写真です。「おこうこ」というのは沢庵( 「お香々考」という素敵なページがあります )、「たいた」は「炊いた」で、京都などの言葉で「たくあんを煮たもの」という言葉です。料理名です。wikipedia によると(wikipedia って何でも載ってますね!) 日本の郷土料理。京都府、滋賀県、福井県、石川県などに分布する。古沢庵漬けを出汁や醤油などで煮付け、仕上げに唐辛子などを散らしたもの。酒のつまみやご飯のおかず、茶漬けの付け合わせとして、温かいまま、または冷やしたものを食べる。主に夏から秋にかけての料理である。地域や家庭によって「たくあんの煮たの」、「たくあんの炊いたん」、「贅沢煮」(そのままでも食べられるのにわざわざ一手間をかける点が「贅沢」)、「ふるさと煮」、「大名煮(京都)」など様々な異称がある。「たくあんの煮たの」などは初めて聞くものには違和感を抱かせる呼称だが、いずれも地域に根づいたれっきとした固有の料理名である。( たくあんの煮物 - wikipedia ) ですって。うちでは「贅沢煮」って呼ばれています。で、この料理、珍しくもなんともなくて、どっちかっていうと食傷気味の食べ物なわけですが、初めての人には評判がよかったり、場所が場所ならとても高価な料理だったりするらしいんですね。漬物の塩をわざわざ抜いて煮物にするわけで、お手間いりの料理ですしね。 場所がかわるだけで価値ってびっくりするくらい変わる、って思わされることが最近たくさんあります。時や場所によらず大事なものって何なのか、っていうか、そもそもそんなものあるのか、今テスト勉強することがどれほど大事なのか、そんなことを考え始めてテスト勉強のやる気が全然でてきません。

壱越の商

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今日で研修は最後。最終日のメニューはお経の読み方。 「はい、出音(しゅっとん)は壱越(いちこつ)の商です。ここで2回ユリが入ってきります。では一回やってみますね。とぉべーいーーーーいいぃぃいいいぃぃいぃぃいいぃぃ...、ね?」 ね?ってね...。 画讃-大師影供作法 上の写真のはこんな感じでです。勝手にアップしていいのか分かりませんが、っていうか、たぶんダメですが、指摘されたら検討するという方向でアップします。 で、これ、できるようになるとは到底思えないわけです。とにかく前途多難です...。

ニルヴァーナ

今日は「仏教教義」です。昨日は日本の各宗派のお話でしたが、今日は仏教全体に底流する思想についてです。 様々なバリエーションのある仏教、何が仏教かっていうとよく分かりません。インドから漢訳され中国に伝わったお経、当時偽物がたくさん出回り、その真偽を確かめる時の指標があったそうで、四法印と呼ばれます。ここから外れると仏教とはよばない、みたいな、仏教を仏教たらしめる原理だそうです。 諸行無常 諸法無我 涅槃静寂 一切皆苦 だそうです。4つ目は1つ目に含まれると解釈し三法印とする立場があって...、とか何とか、根本原理のところからすでにいろいろあるわけですが...。 諸行無常。全ての現象は刹那刹那に変化する。 諸法無我。諸法っていうのは、あらゆるものごと、概念化できるものすべて、みたいな意味だそうです。無我ですが、「我」っていうのは「自分」とか「私」とはちょっと違って、 アートマンの「我」 です。現代日本語では「霊魂」などと近い意味だそうです。で、霊魂はどこにもない、というのが「諸法無我」です。この「どこにもない」っていうのが、全てはかりそめの姿、全ては「空」、「ない」とはいうけど、ないんじゃなくて・・・、っていう「空」の思想につながるものです。 涅槃静寂。仏教が目指す境地です。 涅槃はサンスクリットのニルヴァーナ(nirvana) のことで、滅、寂、などと訳される言葉。煩悩の火が吹き消された状態、悟りの境地、みたいな状態だそうです。苦しみから解放された静寂を目指すのが仏教、っていうことでしょうか。 一切皆苦。そもそも全ては苦しいものである。確かに仏教っぽいです。「苦」は、実際の苦痛っていうよりも広い意味で、思い通りにならないこと、みたいな意味だそうです。「苦」についてもいろいろあるんですがまたおいおい。 以上、たしかに仏教っぽい。とはいえ、例外や解釈の違いは山のようにあります。 で、「縁起」というのも、仏教の中心にある思想だそうです。「因縁」とか「因果」ともいいます、全ての結果には原因と条件がある、というものです。釈迦がこの「縁起」を分かりやすく説明したものが、「四諦八正道」というものだそうです。 「諦」は真理くらいの意味だそうです。4つあって、 苦諦 人生は苦である 集諦 苦の原因は煩悩である 減諦 煩悩を滅した境地が涅槃である 道諦 涅槃にいたる道が八正道である で、

日本の仏教あれこれ

1日更新をさぼってしまいましたが、昨日は「各宗の教義」でした。日本仏教のいろんな宗派についての勉強です。 大胆にざっとまとめます。 ・奈良仏教は中国より伝わった仏教の文献を読み解く研究としての仏教。この時代の「宗」は「学派」の意味。東大寺に共存していた6学派が、後に「南都六宗」とよばれる三論宗、法相宗、華厳宗、律宗、倶舎宗、成実宗へ。 ・平安仏教(天台宗と真言宗)ではじめて仏教の日本的解釈が始まる。学問・研究から信仰・実践へ。 ・鎌倉仏教(禅宗、日蓮宗、浄土宗)、それまで僧侶や貴族階層のものだった仏教が大衆化され、理論や実践が単純化され簡素化される。 で、各宗派、これもざっくりまとめます。まず奈良時代から。 三論宗。今は教団として存在しているわけではありませんが、後の日本仏教に大きな影響を与えた宗派だそうです。般若経に説かれている「空」の思想を体系化したもの。うぅん、空の思想ってとても興味深いわけですが、教科書からちょっと引用すると、 有と無を否定してすべては空であると説いた。眼前の全てはかりそめの姿。しかし実体がないからといって、全くの無でもない。有の空、空の有というべきもので、互いに妨げるものがないというのが真実。しかし、有とは空に即した有であるから、有といっても単なる有ではない。同様に空も有に即した空であるから単なる空ではない。よって非有非空と表現されるが、この非有非空も言葉でもって表現した以上すでに真実でなくなる。よって真実を表現しようとすれば再度これを否定しなければならない。 みたいな感じです。直観的にとても深いことが書かれているようには思いますが、まあ、何というか...。っていうか、奈良時代の日本人がこんなことを考えていたことに感動します。奈良時代ってギャートルズみたいな感じなのかと思ってました。 法相宗。日本伝来は三論宗に次いで古いものです。仏教では宗派によらず、迷いや惑い、苦悩からの脱却が目指されるわけですが、そこでは、人の心や精神の働きを明らかにしようとする試みが生まれます。法相宗では、心のはたらきをの中心を「心王」と呼び、「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」「意識」「末那識」「阿頼耶識」という8つの識で構成されると説きます。末那識とか阿頼耶識、どんなものか気になるところですが、説明を読んでパッと分かるものではありません。「フロイトによる無意識

規則

今日のテーマは「宗門法規」です。今日の講師は、本願寺のなんとか部長という事務方の偉い人です。主な内容は、教団の規則、教団組織、宗教法人法、の3つです。 今年法人を作っているので、宗教法人法などには興味が全くないってことではありません。今年は法人という言葉がやたら登場します。 浄土真宗本願寺派には様々な組織と規則があり、講義では教団を国にたとえて説明されます。憲法の前文にあたるのが宗制、憲法が宗法、法律が宗規、・・・、国会が宗会、内閣が総局、司法当局にあたるのが監正局・・・って感じだそうです。配布された組織図、とっても難解です。縦と横が入り組んでるっていうか、それぞれが従属関係でも並列関係でもない、みたいな。わかりやすいところでは、 浄土真宗本願寺派(包括宗教法人)  |  |― 本山本願寺(京都堀川通の西本願寺)  |― 直属寺院(築地の本願寺など46別院・19教堂)  |― 一般寺院(全国の10300寺院)  |― 門主(一番偉い人、親鸞の末裔)     |― 宗会     |― 総局     |― 監正局     |― 勧学寮     |― ・・・ って感じですが、実際にはそれぞれが両矢印でもっと複雑に結ばれています。宗派全体で大きな法人なのですが、それに属する個々のお寺も独立した法人格を持っていて、宗派全体の法人に包括される、という法人です。よく分かりませんが、個々のお寺は子会社みたいな感じになるのかなぁ。ちょっと違うかなぁ。こう見ると、一般寺院と本願寺と門主が並列になっているように見えますが、実質的には本願寺派と本願寺は一体になっていて、門主は本願寺や直属寺院の住職なので、ま、とにかくややこしいです。 で、法人なので、法人の規則を定めて所轄省庁(都道府県知事、法人が県をまたぐ場合には文部科学大臣)の認証を得る必要があって、本願寺派が包括宗教法人として文科大臣の認証を受けている規則が宗規、各寺院が単位宗教法人として認証を受けている規則が寺則。とはいえ、日本に法人という言葉ができるずっと前からある団体なので、各種規則は明治になって後付けで作られたものです。さらに、今の宗教法人法が制定されたのが昭和26年なので、多く規則はそれに合わせて戦後に制定されたものです。 たとえば宗法を見てみると、 第一章 総則 (名称)第一条 この宗門は、浄土真宗本願寺派という。 (目的

淘汰

今日は仏教史です。ふう...。今日の講師は龍谷大学の教授です。山口県の小さなお寺の住職でもあるとのこと。 紀元前のインドから現代アジア諸国にいたる仏教の流れのお話なのかと思っていましたが、今日の先生が専門にされているのが日本近代史だそうで、その辺りばっさりはしょって(!)、江戸時代の日本仏教のお話でした。 江戸時代の日本仏教は、「幕藩制仏教」ともよばれ、徳川幕府の正統宗教として政治に組み込まれ、教団運営の地盤が固まるとともに、教義理念に基づいて権力を批判する能力を失った時代、ということができるそうです。膨大な数の寺院が創建され、教団と各寺院、寺院と檀家のネットワークが制度化された時代でもあります。 たとえば寺請制度。幕府のキリスト教禁制のためのこの政策は、全国民が強制的に仏教寺院に所属させられる制度です。戸籍業務の仏教寺院への委託、というか、強制加入の檀家制度です。この時代の寺院は実質的には役所の出先機関だったんですね。お寺の過去帳が充実してるのはこういう歴史があったんですね。 で、この制度、寺院側としては安定した運営や収入を保証される形となり、僧侶の堕落が目立つようになった時代でもあり、明治維新時の激しい廃仏毀釈の背景となります。 また、この制度によって、僧侶と民衆の接点が増え、良くも悪くも仏教が大衆化された時代でもあり、加持祈祷やお祓いといった現生利益的な仏教が流行し始めたのもこの頃だそうです。 檀家制度ってこんな形で作られたものなんですね。檀家制度の崩壊、という言葉はよく聞きますが、そりゃ崩壊しますね。っていうかいまだに残ってるっていうのがむしろ驚きです。明治になって約150年、約5世代、まあ残っててもおかしくはないのかな。すでに都市部ではかなりなくなっていると思いますが、滋賀県などでもおそらく僕の世代が檀家制度の最後です。既得権益の上にあぐらを組んでいるお寺が本格的に淘汰される時代です。

布教法

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お休みを1日はさんで6日目「布教法」です。布教の方法、布教も何も...と思いつつも興味のあるタイトルです。開始前にレジュメが配られます。人前で話すこと、好きか嫌いか問われれば、まあ嫌いです。でもまあ仕方ない。最初は嫌いだったけどはまってた、なんてこともよくあることです。 作法のお話と実演から入ります。 法話の作法については明文化されたルールがあるわけでなく、慣習としての作法です。もちろん大切なのは話の中身ですが、作法がなっていなければ伝わるものも伝わらない、ということです。 演題の設置場所、会場への入り方、話し始めるまでの作法、話し終えた後の作法、出方、いろいろあります。とはいえ、演題の前で立って話したり、畳の上で座って話したり、会場の形や状況は様々なので、臨機応変に、丁寧に、わざとらしくなく、リズム感のある所作を、とのこと。 次は「心得」です。 話す側と聞く側、立場は全く同じです。教えるのではなく学ぶという姿勢です。法話は「おとりつぎ」と呼ばれます。親鸞の思想、教え、を伝える、取次ぐ、という意味です。言葉で伝えることも重要ではあるが、行動こそが重要です。何を考え、どう行動し、どういう生き様か、見られているのはそこです。そこがおろそかであっては何も伝わらない。とはいえ、常に強く正しく清らかに生きることも難しく、与えられた能力も様々。大事なのは謙虚に真面目に学ぶ姿勢です。といったお話。 お寺は布教の中心施設。しかし、階段が急、暗い、暑い、寒い、乳幼児や高齢者や障害者が来やすい建物になってない。古い建物にはそれなりの良さもありつつ、お寺の本来的な意味を考えると変えていくことも検討すべきだろう。布教は言葉だけではなく、環境を整えることも大事です。少なくとも掃除はちゃんとしてください。と。 布教使は布教師ではない、というお話。「私が教える」「私が助ける」「私が・・」ではない、あくまでも、私は取り次ぎに使わされたもの。学んで教えるのではなく、学ぶ姿が人に伝わります。学ぶことと伝えることは常に同時進行です。と。 仏徳讃嘆が大事です。仏の教えを伝え説明し感動させることではなく、仏の教えを聞き味わい感動することです。仏の言葉を伝えることで救われるのであれば誰も苦労しません。苦悩を共有すること、共感すること、寄り添うこと、まずはそこからです。と。 道は長いわけです。 で、次は「法話の

Gospel & Religious

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研修では「お経の読み方」っていうのも習うわけです。教材としてCDなども作られてるんですね。iTunesに入れたらちゃんと曲名が自動入力されました。アーティスト「式務部・勤式指導所」、ジャンル「Gospel & Religious」。文字化けしてるわけじゃないんです。明日から電車の中でこれを聞くんです。

後悔先に立たず

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ちょっと線香の匂いが漂うブログになってます。ちょっと話題をかえて、いま地球上でもっともイケてる車ことタウンエースのお話。研修でほったらかしになってましたが、先週9日に納車されてたんですね。シロシベの車なので、シロシベってどこかに入れたいわけです。別に入れなくちゃいけないわけではありませんが、こういった商用車はやっぱり何か書いてないと落ち着きません。というわけで、Photoshop でああでもないこうでもない、とやっていたわけです。段ボール製ステンシルテンプレートとスプレーで描いてやろうかと思って。後悔するかなぁ...。

5日目

こんにちは。研修5日目、今日は「真宗史」です。主に親鸞の生涯についてのお話でした。 東京大学史料編纂所での「親鸞非実在説とその反論」の紹介から始まります。でまあ、実在したというのが今の定説。とはいえ、詳細については諸説あったりもします。主な情報のソースは、親鸞の曾孫が残した「親鸞伝絵(しんらんでんね)」や恵信尼の書簡などです。 親鸞は1173年、京都の日野家の長男として誕生。日野家は平安朝廷に仕える官吏の家系。時代は古代から中世への転換期、公家から武家へ勢力が大きく移る時代。親鸞と父と4人の弟全てが出家していることから、日野家は平安末期に次々に没落した下級公家の一つであったらしい、とのこと。何かに目覚めて出家したわけではなく、それしかなくて出家した、みたいなことなんですね。 1181年、9歳で得度。その時に詠んだと伝えられる歌、 「明日ありと おもう心の あだ桜 夜半にあらしの 吹かぬものかは」 9歳って今でいう何歳なんでしょう。9歳か...。平安貴族ってどんな教育してたんでしょうね。平安末期って9歳児でも無常感を言葉にしてしまうような世の中だったんでしょうかね。 で、得度して比叡山にのぼります。 当時の比叡山は天台宗の総本山というだけでなく仏教を学ぶ最高学府。親鸞はここで「堂僧」として20年間修業します。堂僧とは、主に「不断念仏の行」を行う僧です。不断念仏の行は、1日に20時間以上、食事と入浴以外、阿弥陀仏像の周囲を「南無阿弥陀仏」と口にしながらぐるぐる歩き続けるっていうのを90日間続ける、っていう修行だそうです...。これをやってると、感覚が研ぎ澄まされて、線香の灰の落ちる音が轟音になり、仏が見えるようになる、と。それは確かに見えそうです。これを9歳から29歳までの20年間続けます。しかも平均寿命は今よりはるかに短い当時の20年。ううん、ちょっと想像を絶します。で、仏が見えると、どんな仏が見えたかを偉いお坊さんに報告するんですって。そうすると、偉いお坊さんが「それは本物」とか「それは違う」って判断するんだそうです。現代において、これを精神科の先生に報告するとお薬が出てきそうですね。強制的に別の修行が始まってしまうとかね。 で、親鸞は思い悩んだ末、比叡山を29歳(1201年)で下ります。そして尊敬する聖徳太子にゆかりのある京都の六角堂に100日通います。95日目に

松田タクシ一

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一見「松田タクシー」に見えるけど、よく見ると「松田タクシ一」。「ー(長音符)」と「一(いち)」は似てるけど違います。全角だけでも「‐(ハイフン)」とか「―(ダッシュ)」とか「-(マイナス)」とかいろいろあります。注意してください。気になって仕方ありません。 というわけで、研修4日目「宗教概説」です。 宗教を扱う学問にはいろいろあります。特定の一宗教を対象にして信者の立場から研究し、その成果を実際の生活に生かそうとする志向をもつ神学的研究、特定の宗教を信じるという立場ではなく理性的・批判的に宗教を思弁する哲学的研究、客観的に科学的に宗教を理解しようとする宗教史学、宗教心理学、宗教社会学、宗教民俗学、宗教現象学...、まあ、いろいろあるようです。 そうそう、昨日と一昨日に受講した教義に関する講義、「なんでこんなにスッキリしないかぁ」と思っていたのですが、あれは神学的アプローチの研究成果なんですね。今日の講師の先生は、これを「こてこての真宗学」と呼ぶんですが、こてこての真宗学では、浄土真宗の僧侶が僧侶として研究するんですね。だから「親鸞の●●という言葉は...」とは言わずに「宗祖の●●というお言葉を味わせてもらうと...」なんて言い方をするんですね。内容には無批判で。それがすごく大きな違和感だったんだなぁ、と思ってすっきりしました。神学ってどういう学問なんだろう、って思ってましたが、ちょっと意味が分かったような気がします。宗教の内側から宗教を見る学問、っていうのかな。非科学的ではありますが、とても大事なことですね。宗教に限らず内側に入らないと見えないことってありますもんね。 で、宗教の定義、これも古くからいろんな人がいろいろ言ってて、 無限なるものを認知する心の能力(マックス・ミュラー) 有限者の精神が無限の神的精神を了知する過程(ヘーゲル) 敬虔と呼ぶ心の状態(ティーレ) ひたすらなる依存感情(シュライエルマッハー) 道徳的義務を神命として承認することである(カント) 知性としての宗教、情緒としての宗教、意思としての宗教、いろいろです。 ちなみに、「宗教」という日本語は「Religion」の訳語として明治時代に作られた言葉で、Religion の語源はラテン語の Religio、これは超自然的な事物に接した時の畏怖や不安といった感情、その感情をひきおこす対象やそれへの儀

二つの河の間の白く細い道

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研修3日目です。今日のテーマは「真宗教義・宗祖教義」です(「きょう」で変換すると「経」と出ました)。宗祖、つまりの 親鸞 の思想についてです。親鸞は800年前の日本人なので直接読める言葉も多くて、昨日の講義の内容に比べるとだいぶ近しい感じがしますが、それでも、いつどのように書かれたのかが不明である文章も多く、筆跡の分析で書かれた年代や順番を推測してたり、当然、書かれている内容も簡単に解釈がわかれる感じです。今日の講師は、 教学伝道研究センター の研究員の方です。 前半は親鸞の著作物について、です。 親鸞が書き残したものはたくさんあります。漢文で書かれているものが、「 顕浄土真実教行証文類 」、「 浄土文類聚鈔 」「 愚禿鈔 」「 入出二門偈頌 」。和文で書かれているのもが、「 浄土和讃 」、「 高僧和讃 」、「 正像末和讃 」、「浄土三経往生文類」、「尊号真像銘文」、「一念多念文意」、「唯信鈔文意」、他にもたくさんの文書や、「ご消息」と呼ばれる弟子宛ての手紙やメモがたくさん残っているそうです。このあたり、試験に出ます。 親鸞といえば「 歎異抄 」なのかと思っていたのですが、これは親鸞の死後に弟子(唯円?)が親鸞の言葉を回想して書いたものだそうで、宗制の中では「聖教に準ずるもの」として親鸞本人の著作物とは同格に扱わないんですって。へえ。「口伝の真信に異なるを歎(なげ)き」つまり、口承で伝えられる教えが曲解されることを嘆いて書かれたから「歎異抄」なんですね。へえ。 後半は教義の中身に入ります。 今日の資料を見てみると、キーワードは、「往相・還相の二種の回向」、「教・行・信・証の四法」、「出世本懐」、「南無阿弥陀仏の六字釈」、「信心」、「信心正因」、「称名念仏」、「自力と他力」、「現生正定聚」、「涅槃」、「難思議往生」などなどです。それぞれさらっとかいつまんで説明できるとは思えないので今日は断念します。 親鸞に著作物に繰り返し出てくる「二河の譬喩(にがのひゆ)」というのがあります。大雑把に要約すると、 西に向かって旅する人がいる。 果てしない荒野を旅してきたこの旅人の周辺に人は誰もいない。 群賊悪獣が競い合ってこの旅人を殺そうとしている。 死を怖れて走って逃げてきた旅人の目の前に忽然と二つの大河が現れる。 南側に火の河、北側に水の河、それぞれ深く広く底も対岸もない。 その

三経七祖

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研修2日目、浄土真宗の教義についてです。浄土真宗の開祖は親鸞ですが、親鸞が拠り所にした3つのお経と7人の僧についてのお話です。三経七祖と呼ばれます。 お経は釈迦の教えですが、釈迦が書いたものではなく、釈迦との対話を弟子たちが書き残したものです。なので無数のバージョンがあります。各宗派の開祖が、その中から琴線に触れた経典を選定し、それを解釈し、その基礎の上に構築した思想が各宗派の教義です(っていうことだと思います)。浄土真宗の開祖、親鸞が選んだのは「 大無量寿経 」「 観無量寿経 」「 阿弥陀経 」の3つだそうです。教科書を見ると「観無量寿経の梵本は未だ発見されていない」なんてことがさらっと書いてあるわけです。拠り所にしているお経のオリジナルが未発見、ってひどく不安な気持ちにさせられますが、そういうものなんですね。でまあ、上の3つの漢字に伝訳された3つのお経の親鸞の解釈が浄土真宗、ってことなんです。きっと。 内容については、教科書を呼んでみると、 大無量寿経は上下二巻に分かれ、上巻において弥陀成仏の因果が説かれる。弥陀成仏の因果とは、阿弥陀仏もと法蔵菩薩であった時、衆生救済の悲願止みがたく、世自在王仏のみもとにおいて、二百一十億の諸仏王を覩見し、その中より善見なるものを選取して理想の浄土を建立し、その浄土に衆生を往生させたいと念じた。・・・ うふふ。「分からない」ことは多々ありますが、ここまで分からないのは久しぶりです。分かるようになるのかしら...。でも、考えてもみれば、初めはチンプンカンプンだった大学院のゼミもいつの間にかああだこうだ言うようになってたり、数年前は宇宙語でしかなかったHTMLとCSSを今は書いたりしてるわけで、今はさっぱり分からない状態でも分かるようになったりするんですよね。「分かる」って不思議なことです。 で、浄土真宗の教義を知る上で重要なのが七高僧と呼ばれる七人の僧侶です。もっと言ってしまうと、七高僧の三経の解釈を親鸞が解釈したものが浄土真宗、ってことなんだと思います。たぶんですけどね。で、七高僧っていうのは、インドの 龍樹 、 天親 、中国の 曇鸞 、 道綽 、 善導 、日本の 源信 、 源空 なんですね。なぜこの七人かというと、選定基準っていうのがあって、 自ら西方往生を念ず 書を撰して他力の法を弘伝す 法儀に発揮するところあり 宗旨に相応

布袍

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こんにちは。 昨日から教師検定講習会というものに参加しています。教師というのは僧侶の規範となる僧侶、みたいなことだそうで、下世話な言い方をすると「住職資格」的なものです。教師になるための修礼(しゅらい)という合宿研修のようなものがあるのですが、その修礼に参加するための講習会です。この講習会の最後に試験があって、試験に合格すると修礼に参加できるんだそうです。現代的でシステマティック。 で、初日のプログラムは「基幹運動」と「勤式作法(ごんしきさほう)」です。 午前のコマは「基幹運動」です。基幹運動というのは、浄土真宗の宗制を実現していく運動のことだそうで、宗制というのは国でいうところの憲法に相当するものだそう。午前中の講義は、そのような文章が作られた背景とその変遷について。講師は、広島の山間部の過疎の村(65歳以上が人口の60%!)のお寺の住職です。最初に宗制が制定されたのが1886年(明治19年)と意外と新しくって、明治政府とのいろんな交渉の中で、それまで政府のコントロールの外にあった各教団が文部省の管轄におさまることになって、その際にそれぞれ宗派の宗旨の明文化が必要になって制定されたんだそうです。その後の政治の動き、特に戦争へ向かう動きに抗ったり流されたりしつつ、宗制の改正が繰り返されてきたんだそうです。教義と教団運営の間の葛藤とか、教義と実生活の折り合い、変えていくべきところと変えちゃいけないところ、僕自身の個人的な葛藤とも重なることが多く面白かったです。そもそも教義って何よ、って話ですが、これは日を改めて。 午後は「勤式作法(ごんしきさほう)」です。お作法です。歩き方、立ち方、座り方、服装、お経の読み方、鐘の鳴らし方、仏壇の中の物の名前とその配置、各種法要などなどについてです。「これ試験に出ます」っていう台詞、久しぶりに聞きました。たとえばどんなのが出るかというと、「蹲踞(そんこ)の姿勢は、正座の状態から両足の踵を上げた状態で...」「散華(さんげ)とは華籠(けろう)の中の華葩(けは)を右前方に散らす作法で...」とか「礼装第一種は、色衣(しきえ)、七条袈裟(しちじょうげさ)、僧綱板(そうごうばん)、切袴(きりばかま)・・・」とかとか。変換しても出てこない漢字がいっぱいで面倒なのでもうやめますが、「説明できて漢字で書けるようにしておいてくださいね。」とのこと。う

僕が考える素敵な車ベスト10

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こんなブログを書いている場合ではなかろう、という声が複数の場所から聞こえてきそうな11月初旬の平日です。今日、警察署に行って車庫証明の書類を受け取ってきました。というわけで、車についてです。 幼少期より車が好きで、今でも町を走っているかっこいい車を見てワクワクしています。車好きといっても、欲しいとか乗りたいとか、そういうことは思いません。花を見てきれいと思う、そんな感じで、車を見てドキドキする、そういう車好きです。 というわけで、僕が考える素敵な車ベスト10です。 第10位 ポルシェ911 小学生のときに「ポルシェターボRSR934レーシング」っていうタミヤのラジコンを持ってたんです。最もわくわくさせられた車の一つです。934はレース用の車で市販はされてないのかな。新しいのもかっこいいですね。というわけで、911が第10位です。 第9位 VW ニュービートル これはかわいい。賛否両論ありそうですが、僕は新しいほうのビートルが好きです。 第8位 ハマー H1 こんな車「あげる」って言われても「いらない」と即答します。町で走ってるのを見かけても「バカだな〜」とつい思ってしまいます。でも、かっこいいとは思います。The Pharcyde の Runnin' でビデオで使われてて、このビデオも素敵です。 第7位 日産フェアレディZ ご近所のお兄さんが乗ってた「Z」です。3代目以降はピンときませんが、小さな頃この車にはドキドキしました。 第6位 ランボルギーニ・カウンタック これも子供心に憧れた車。このドアの開き方...。どんな顔しておりてくればいいんでしょうか。 第5位 アウディ R8 これは町で走ってるのを見て目が釘付けになりました。キリっとした顔と黒くえぐれた脇腹、しびれます。鼻の部分の小さめのエンブレムがまた上品。 第4位 フィアット チンクチェント ルパン3世の乗ってる車。何年か前に新しいのが出ましたが、これは古い方が好き。 第3位 アルファロメオ 8C スパイダー 実物を見たことないけど、どう考えてもかっこいい。キュっとしまったお尻のミステリアスな表情とかたまりません。 第2位 VW ゴルフ・カブリオレ まだヘッドライトが丸かったころのゴルフ・カブリオレ、大好きです。 そして、第1位 タウンエース ぶっちぎりの1位です。いや本当に。飾り気のないタイトな内外

木枯らし

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また久しぶりになってしまいました。なぜかまだバタバタしています。何をしてたのか、と聞かれるとよく分からないのですが、なかなかのんびりした感じになりません。田舎でののんびり生活をお届けするつもりが、以前より忙しくなってる気がするのはどういうわけでしょうか。 最近の出来事といえば、税理士さんにお願いして無事シロシベの確定申告ができたこととか、税理士さんに出納帳の書き方や領収書の残し方を教えてもらったこととか、大阪の中古車屋さんに行ったこととか、物を燃やしたこと、穴を掘ったこと、掃除したこと、一気に気温が下がったこと、...くらいしか思い出せないのですが、なぜか忙しく過ごしている気がします。シロシベが忙しいんですね。きっと。ブログに書き残しておきたいことがたくさんあるのですが、大事な時に限って時間がなかったりカメラを持っていなかったりするんですね。 一昨日、近畿地方で「木枯らし1号」がふいたそうで、その日のこの写真、左が秋で右が冬です。