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Showing posts from 2015

2015

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2015年、いろいろあった。 どの出来事が未来にどうつながっていくのか、 どういう意味を持つようになるのか、 想像できないことばかりだ。 ...当たり前か。 何を手に入れて、 何を失っているのか、 全然分からない。 ...いつもそうか。 この冬はあまり寒くならなくて、 今夜も雪ではなくて雨だ。 ...どうでもいいか。 なんなんだ。まったく。

芝生化

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久しぶりの更新。 写真は14ヶ月前と2ヶ月前の南小学校の運動会、グラウンドが芝生になった。この1年で、子どもの6分の1は卒業して6分の1は新人で、みんな1つずつ年をとって、新しいデザインの体操服を着てる子が増えて、壁にかかってる標語も微妙に違う。「つかみとれ なかまとともに 感動を」感動って湧いてくるものだろ、命令されてつかむものじゃないし、だいたいこの命令語を発してる主体は誰なんだよ、先輩か?先生か?文科省か?GHQか?とブツブツ言いたくなるのは昔から変わらない。自分が出た小学校の運動会を約20年ぶりに見た時はその内容の変わらなさに驚いたけど、実は毎年少しずつ変わってる。 10月~11月は、報恩講シーズンだ。今年はたくさんのお寺の報恩講に参加したし、まだいくつか残ってる。報恩講は僕が知ってる範囲でも、開催期間が短くなったり、簡略化されたり、食事の準備がアウトソースされたり、新しい繊維素材の袈裟が出てきたり、お坊さんがあまりお酒を飲まなくなったり、いろいろ変化はしてるけど、室町時代からほとんど変わらないデザインの袈裟、同じような作法、同じような節回しのお経、同じような儀式が同じ場所で繰り返されている(らしい)。 身体の細胞が数年で入れ替わっていく感じだ。 ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、だ。 運動会や報恩講にかぎらず、いろんな習慣、制度、関係性、大きなことから小さなことまで、続いてるものを続けたい気持ちと変えたい気持ちが必ず両方出てくる。そしてどれも、代謝や流水が思い通りにならないように、続けたくても続かないし、やめたくてもやめられない。そうこうするうち、続けたいのかやめたいのかよく分からなくなってくる。岸から河の流れを見てるのか流れる河から岸を見てるのか、代謝してるのか代謝されてるのか、よく分からなくなってくる。 で、結局、その場その場でお茶を濁す。「お茶を濁す」とは「茶道の作法をよく知らない者が程よく茶を濁らせて、それらしい抹茶に見えるよう取り繕うことから生まれた言葉」ふふふ。まさに全部それだ…。 この秋はわりと忙しかったのだけど、本をたくさん読んだ。村上春樹の「村上さんのところ」と村上龍の「すべての男は消耗品である。」を一気読みしたのが楽しかった。 エマニュエル・トッド, 堀茂樹・訳「「ドイツ帝

雨対策

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5月は何だったのか。5月は5月か。そりゃそうだ。...何を言ってるんだ。 相変わらず中年の危機なのか、いろいろと迷っている。いや、迷ってないのか。それすらもよく分からないけど、石馬寺、BBQ、長浜、東京、断食、降誕会、立命館、京都、東京、BBQ...、なんだかんだで日が過ぎていく。 今月はよく走った。 本も何冊か読んだ。 誰をも少し好きになる日 眼めくり忘備録 (文春e-book) 鬼海弘雄 経済学は人びとを幸福にできるか​ 宇沢弘文 完全教祖マニュアル (ちくま新書) 架神恭介  あれよあれよと5月が終わって6月だ。ふむ...。  ハワイ報知の6月の記事を転載(最後ちょっと足してるけど)。 ----- 雨対策 ランニングのコースにしている小さな山の頂上に雨宮龍神社という小さな神社がある。龍神は雨を司る神様で、龍と名のつく神社は、かつて雨乞いが行われていた神社であることが多いそうだ。しかも雨の字まで入っているこの神社は、きっと昔は雨乞いの儀式が行われていたのだろう。小さな山の上とはいえ、子供やお年寄りには登り切ることが難しい坂の上だ。そんな場所に神社を建てて祈っていた昔の人たちの必死さが伝わってくる。 現代、人間は気まぐれな雨を克服できたか。もちろんできていない。災害は毎年のように起きているし、屋外のイベントは中止になったり延期になったりする。そして、傘という道具は、頭上に布を広げて濡れないようにするという原始的な仕組みのままだし、車のワイパーはゴムのついた棒で雨を拭うだけだ。雨対策に関しては(も)、人間は賢い猿と大差ない。雨対策を様子をよくよく見てみると、人間の愚かさや小ささを感じずにはいられない。 天気予報は昔よりはよく当たるようになったのかもしれないけど、やはり外れる。お天気キャスターが、他のニュースキャスターに比べてお茶目なキャラクターを演じがちなのは、きっと、おどけたお天気キャスターに人間の無力さを投影して、視聴者が自らの無力さを直視することを避けるための巧妙な仕組みだ。 雨は空から降ってくる水だ。こんなものに振り回されるというのは、情けなくもあるけど、でも、なんだか、とても素敵だ。もうすぐ雨の季節だ。 ハワイ報知 2015年6月1日10面

72時間の断食やってみた

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半年ほど前、 36時間の断食やってみた ところ、いろいろと気持ち良かったので、もうちょっと長い断食をやってみようと思っていた。で、そろそろ気持ちの良い季節になったので、72時間の断食をやってみた。 5月10日(日)の夕食を食べた後、72時間何も食べないで、13日(水)の夕食で解禁、というスケジュールだ。今回は、食べ物だけではなく、タバコもコーヒーもガムも禁止。口にしていいのは水だけ、だ。僕はニコチンにもカフェインにも甘味料(?)にも依存しているので、いっきに全部禁止してみるとどうなるのか、興味津々だ。 では、時間を追って、感じたこと、思ったこと、メモしておこう。 3 時間目(10日22:00)  夕飯を食べた直後なのに(しかも多めに)なんだかお腹が空く。タバコ、食後の一服を吸わずに乗り越えた。というか、まだ開始して3時間だ...。乗り越えたも何もない。 13 時間目(11日8:00)  いつも通りよく寝れた。朝ごはん食べたい...。すっきり目が覚めてない感じがする。 15 時間目(11日10:00)  なんと、ここでタバコ解禁...。はやい...。よわい...。だって仕事に集中できないんだもん...。連鎖的にコーヒーもガムも解禁...。最初から食べ物だけにしとけばよかった。余計な敗北感を味わってしまった。 19 時間目(11日14:00)  昼ごはん、乗り越えた。お腹すいた。どういうわけか前回よりも空腹感を強く感じる。 23 時間目(11日18:00)  仕事は普通に頑張れた。空腹感がどっと押し寄せてきたり、すっかり忘れて作業に集中してたり、だ。 25 時間目(11日20:00)  24時間経過。ここでなんと攻めのランニング、軽く30分。気持ちよく走れた。 28 時間目(11日23:00)  空腹感はほとんど感じなくなった。3食抜くと食べてないのがデフォルト設定になるみたいだ。あと、肌の調子が良いように思える。 35 時間目(12日6:00)  ちゃんと眠れた。空腹感も全然なくて、食べ物を見ても欲しいと思わないようになってる。もう折り返し地点だ。そして、36時間までは経験済みなので、ここからが未体験ゾーン。 43 時間目(12日14:00)  いつも通りに、というか、それ以上に仕事がはかどる。食べ物を見ると欲しいと思うけど、

田んぼ鏡像認知

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1ヶ月に1回のペースって、ゆったりしてるような、はやいような、だ。人生残り40年あるとしたら、あと480ヶ月、多いような、少ないような、だ。ふむ...。 ハワイ報知の5月の記事を転載します。 ----- 田んぼ鏡像認知 田植えが終わった直後の田んぼは鏡のようだ。水面が光を反射して鏡のように景色を写すだけではなく、人の心を写すという点でも鏡のようだ。 稲の苗やその隙間を泳ぐオタマジャクシ、新しい命はこれから夏に向けて、ものすごい速さで成長していく。これから始まる劇的な成長の予感は、成長や変化への期待や希望にも、取り残されてしまいそうな不安や焦りにもつながる。行儀よく整列する姿は、整然とした心地よい気分にも、不自由で窮屈な気分にもさせる。繰り返される一年周期のリズムは、安心にも退屈にも感じることができる。   田んぼの風景は、ほとんど全自動で心を動かしてくるけど、田んぼは自らの姿に何を感じて欲しいか説明しないし、というか、おそらく田んぼは何も考えていないので、田んぼの風景に何を感じるかは、完全にこちら側の問題だ。田んぼによって心が動いているのではなくて、動いている心が鏡のような田んぼに写っているだけなのではないか。   田んぼが心を写す鏡だとすると、田んぼを見てうっとりしたり感傷にふけったりする姿は、鏡に写った自分の姿に向かって威嚇する犬に似て、間抜けで微笑ましい。今日の田んぼは、暖かい風に吹かれて間抜けにゆらゆら揺れている。 ハワイ報知 2015年5月5日10面

耳や口で覚えてる言葉の意味を後で知るとグッとくる

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いい季節だ。部屋の中で仕事してるのがもったいない。     1999FEET HIGH&RISING A by King 3ldk on Mixcloud ↑ 15年ほど前によく聞いていたミックステープ(懐かしい)があって、その1:43から始まる台詞がある。それこそテープが伸びるまで繰り返し聞いていたので、耳ではよく覚えているのだけど、よく聞き取れないし、意味を調べることもしてなかったのだけど、この台詞の元ネタが、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」の冒頭のシーンということをだいぶ後になって知った。 Don't think, feel! It is like a finger pointing a way to the moon. Don't concentrate on the finger or you will miss all that heavenly glory. Do you understand? 考えるな、感じろ。それは月を指す指のようなものだ。指先にとらわれていてはその先にある栄光を見逃すぞ。分かるか? さらにその後、この言葉の元ネタが、龍樹の大智度論に出てくる「指月の喩」だということを知った。言葉や経典が「指」、真実が「月」に例えられていて、そこにとらわれていては本質は見えない、というとても身につまされる比喩だ。 龍樹は2世紀のインドのお坊さんで、浄土真宗でも七高僧の一人目に挙げられているので、名前自体は子供の頃から何度も聞いていてよく覚えているのだけど、これまた、それが誰なのか、というか、それが人の名前なのかどうかもほとんど何も知らないまま、だいぶ後になって意味を知った、というものだ。 こういう、意味を知らないまま、耳や口で覚えている言葉の意味を後になって知ったり、意味がつながったりすると、最初から意味で覚えるのとは違う独特の感動がある。し、そういう感動を経て知った意味は、辞書で知る意味よりも深く刻まれる感じがする。体で覚えることで、意味が入る容れ物が頭の中にできるような感じだ。 っていうか、やっぱり、こんな気持ちのいい日に部屋の中でPCに向かっていてはダメな気がして仕方ない。

桜と花粉と好きと嫌い

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スギ花粉のピークが過ぎた。やっと春だ。というわけで、ハワイ報知(2015年3月16日)の写真&エッセイを転載。 ----- 桜と花粉と好きと嫌い 桜が嫌いだ。なぜなら、桜の咲く季節は花粉が飛ぶ季節でもあるからだ。この季節、花粉症を患う私の体は、杉や檜の花粉に反応し、鼻がつまり、鼻水が溢れ、目は蚊に刺されたようにかゆく、くしゃみが止まらない。桜に罪がないのは知っているが、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、と同じ原理で、花粉憎けりゃ桜まで憎いのである。 桜の花のうっすらピンクの入った白色はとても謙虚で上品だが、葉が出る前に花を咲かせるあたり、自らの美しさを自覚しているかのようで、したたかな計算高さも感じさせる。年度の変わり目で一斉に満開になって、出会いと別れの光景に文字通り花を添える。そして、パッと咲いてパッと散る様子は、この上なく美しく無常を象徴する。花粉さえ飛んでいなければ、きっと桜が好きだったと思う。  さて、ここで「屋烏之愛」という言葉を思い出す。人を深く愛すると、その人の家の屋根にとまっているカラスまで愛おしく思える、という意味で、「坊主憎けりゃ」のちょうど逆だ。何かを大好きになるとその周辺まで好きになる。大嫌いになればその周辺まで嫌いになる。どうやら、好きの気持ちも、嫌いの気持ちも、とても強くなると、その対象だけにとどまらず周辺にまで溢れ出てしまうらしい。  ということは、一つの仮説が思い浮かぶ。私は好きなものに囲まれて生きていきたいと思うのだけど、もし仮に自分のことを大好きになることができれば、自分の周辺のものまで好きになる、つまり、好きなものに囲まれた状態になるのではないだろうか。うん、理屈としては間違っていないように思う。だけど、私は、自分で自分のことが大好きな人間など大嫌いである。どうすればいいのか。 ハワイ報知 2015年3月16日10面

寒くて暗い冬の朝のしあわせ

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ハワイ報知という新聞に写真&エッセイを連載させてもらえることになった。 ウケる。 ハワイ報知はハワイで発行されている新聞で、アラモアナのニジヤ・マーケットとか、東京の国会図書館に行かないと読めない媒体だそうで、たぶん多くの人は読む機会がないだろうと思うのでここに採録する。では、どぞ。 (って一回言ってみたかった。) ----- 寒くて暗い冬の朝のしあわせ 東に住む人はしあわせ 生れたばかりの太陽を 一番先に見つけることができるから 北に住む人はしあわせ 春を迎えるよろこびを 誰より強く感じることができるから 南に住む人はしあわせ いつでも花の首かざり 愛する人に捧げることができるから 西に住む人はしあわせ いつも終わりに太陽を 明日の空へ見送ることができるから  木下龍太郎作詞の「しあわせのうた」の歌詞だ。子供に頃にこの歌を聞いて、どうしてもひっかかる部分があった。それは一言で言えば「北に住む人は損しているのでないか。」ということだ。なぜなら、東、南、西、それぞれ他にはない素敵な特徴があるのに、北の人にはそれがなく、他の方角に住む人にもやってくる春のよろこびを「強く感じることができる」だけだからだ。  でも、少し大人になって、そもそも幸せとはそういうものなのかもしれない、と思うようになってきた。たとえば、お金をたくさん持っている、人に尊敬される役割を担っている、大きな影響力を持っている、などなどの状況や条件は、幸せとはあまり関係ないらしい、ということが分かってくる。  目の前にある現実をしっかりと丁寧に感じて、味わい、その素敵さに感謝する気持ちがあれば、どこでどのように暮らしていても、きっと幸せを感じることができる、というか、そうすることでしか幸せを感じることはできないのだと今は思う。つまり、幸せとはそれを感じる力、見つける力のことなのだろう、と。  生きていると、思い通りにならないことや、理不尽なこと、意味不明なこと、不愉快で不安になる出来事にたくさん遭遇し、なぜ生きているのか分からなくなることが時々ある。だけど、そんなこちらの思いにはおかまいなしで、太陽は昇って沈んで、四季はめぐり、人は出会い別れて、生まれて死んでいく。この淡々とした流れの大きさに思いを馳せると、寒くて暗い冬の朝の風景も少し

物欲日記 (´・_・`)

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お金で買えるようなもので欲しいものなんて何一つない。一兆円の宝くじが当たっても、仕事、住居、服、食物、その他の持ち物、遊び、全て、今以上のものなんて何もないので、僕の生活は何も変わらない。 と、普段はかっこつけて豪語してるけど、なぜかこの季節は物欲がうずく。忙しいからか、寒いからか、売上が集中する時期だからか、なんだか分からないけど、欲しい物が出てくる。 白いコットンのシャツが欲しい、カーキ色のズボンが欲しい、仕事用のPCもそろそろ...、などなど、ぼーっとするとふと考えている。欲しいんだったら買えばいいじゃん、とも思うけど、そういう問題ではなくて、これはとても重要な問題だ。100円の消耗品であっても、その一つ一つが生活を社会を人生を作っていくわけなので、ちゃんと考えることはとっても重要。目の前の仕事を片付けることと同等に重要。 というわけで、New Balance MRT580 "The Battle of Surfaces" "mita sneakers" MI。 上質な牛革の黒い靴を履いたビジネスマンが難しい顔して街を闊歩する社会と、テニスボールみたいなスニーカーを履いたフーテンがヘラヘラと街を逍遥する社会、どちらが好きかと問われれば、僕は迷わず後者を選ぶ。この靴は履いて街を歩くということは、単にかわいいからというわけじゃなくて、社会のあり方に関する提言でもある。だけど、僕は外出する機会がとても少ないので、そんなに靴はいらない。困った。 そして、Bose SoundLink® Mini Bluetooth® speaker。 去年、一昨年くらいからかな、出張先のホテルとかレンタカーで、Bluetooth に対応してるオーディオ機器を見かけるようになって、試しにスマホの音楽をかけたりして、へぇ、なんて思ってたけど、こんなのが家にあったら最高じゃないか、と気づいてしまった。家事とかBBQとかが俄然良くなる。ただ、問題は、僕が家事やBBQをするのは、外出の頻度よりももっと少ないということだ。いつ使うんだ。 で、BISLEY Basic 12/5 もそそられる。 これは確実に仕事環境が良くなる。シロシベの仕事はほとんど電子化されてるので、事務用品を使うことといえば、見積書、領

2015年はネットショップを始めようと思う

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2015年、もう7日になってしまった。2014年の振り返りと2015年の抱負を書いておこう。 「2014年は、ゆっくり、ちゃんと、丁寧にしたい。コツコツ仕事する、リトリートの修復少しずつ進める、山を走る。心身ともにキレのある状態にして維持したい。2014年は、静かにコツコツ、磨く、育てる、鍛える、伸ばす、そういう年にしたい。」 と書いていた わけだけど、どうだろうか。確かに静かにはしてたように思う。コツコツ仕事してたかなぁ...。半年くらい休んでた気がする。リトリートの修復、年の後半は動きがあまりなかったけど、 前半に大きく進んだ 。山を走るのは、年の後半がんばって、 5kgくらい体重を落とした 。年末年始でリバウンド気味だけど、もう一度節制モードに入りたい。何はともあれ、無事に健康に1年過ごせて良い一年だった。 で、2014年の終盤から動き始めたワクワクすることが一つ。シロシベのネットショップを始めようと思う。 2009年の起業時から定款の業務内容に「雑貨の制作並びに販売」と書いていたくらいなので、ずっと前から興味はあったみたいだけど、特に 2011年の梅干しチャリティ から、消費者向けの小売って楽しそうだなぁ、とより強く思うようになっていた。だけど、小売するにもそもそも商品がないし、大変そうだし、今更素人が参入したって...、ということで行動に移すことはなかった。のだけど、2014年の12月に、中小企業支援機構が主催するEC研修が京都であったので、ふらっと参加してみたところ、研修の内容や他の参加者に刺激を受けて一念発起、ECサイトを作り始めてしまった。今はクレジットカード会社の審査中だったりで、 オープンまでもう少し時間がかかるけど、2015年の早い時期にオープンしたい。 織田信長らが開いた楽市楽座、 その発祥は、天文18年(1549年)の近江国、 観音寺城の城下町石寺(うちの近所)での楽市令が最初とされ、江戸時代にこの地域から生まれた近江商人の活躍はめざましく、 今でもその流れを汲む大きな商社や小売業者がたくさん残っている。近代に入ってからも、西武の堤家や、たねやの山本家など、 どういうわけか琵琶湖の東側の小さな地域から商人が生まれ続けていて、なんだかよく分からないけど、琵琶湖周辺には人に商売をさせたくなる風土があるのかもしれない。 で、ネ